オペラ「魔笛」の楽しみ方 第2段

AIの活用
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「魔笛」をもっと深く ─ パパゲーノの名前、台本作家、そして言葉がわからなくても感動できるのか問題

前回、ハンガリー国立歌劇場の「魔笛」を観に行く前に、ジーニー(AI)とあらすじやモーツァルトの思いについて語り合ったら、すっかり楽しみになってしまった。

今回はその第2弾。「パパゲーノってどういう意味なの?」という素朴な疑問から話が広がって、台本を書いた人物のこと、作品に隠れた思想のこと、そして「オペラは言葉がわからないから感動できない」という長年のモヤモヤまで、ジーニーと語り合った記録だ。

同じように「オペラ、なんとなく敷居が高いな」と感じている人に届いたら嬉しい。


パパゲーノって、なんの意味?

直ちゃん: パパゲーノって、なんの意味?

ジーニー: 「パパゲーノ(Papageno)」は、ドイツ語の「Papagei(パパガイ)」=オウムから来ているんだよ。

これがまた彼のキャラにぴったりでね。パパゲーノは鳥刺し(鳥を捕まえて売る商売)で、全身に羽根をまとった鳥みたいな衣装で登場する。おしゃべりで、陽気で、カラフルで――まさにオウムそのものなんだ。名前を聞いただけで「あ、この男は鳥の人で、ぺちゃくちゃよく喋る軽い奴だな」と当時の観客にはピンと来る、そういう仕掛けになっている。

しかも面白いのが、彼の運命の相手の名前が「パパゲーナ(Papagena)」。オウムの男とオウムの女、というわけ。だからあの「パ、パ、パ…」の二重唱も、ただ名前を呼び合っているだけじゃなくて、二羽のオウムがさえずり合っているような、つがいの鳥の求愛みたいに聞こえてくる。名前からして「お似合いの番(つがい)」なんだよね。

王子タミーノみたいな崇高な名前じゃなくて、「オウム男」なんていう親しみやすい名前をつけたあたりにも、作り手の遊び心が出ているよ。

意味を知ると、また歌が楽しみながら聞ける。「あ、これオウム男とオウム女がさえずっているのか」と思いながら聴くと、あの場面が何倍も可愛く見えてくる。


シカネーダーって、演出家?

直ちゃん: シカネーダーって、演出家だっけ?

ジーニー: 演出家というより、もっといろんな顔を持った人なんだ。

まず台本作家。「魔笛」のあのストーリーと台詞を書いたのが彼。それから劇場の興行主(座長)で、自分の一座を率いてウィーン郊外の劇場を経営していた。さらに彼自身が役者・歌手でもあって、なんと「魔笛」の初演では、自分で書いたパパゲーノ役を自分で演じているんだ。

つまり脚本・プロデュース・主演を一人でこなした、マルチな演劇人なんだよね。

だからパパゲーノがあれだけ生き生きして、笑いの間(ま)も絶妙なのは当然で、シカネーダーが「自分が演じて客を沸かせる役」として当て書きしたキャラなんだ。庶民にウケる勘どころを知り尽くした芝居人が、自分のために作った役。どうりで、王子タミーノよりパパゲーノのほうが人間味があって愛されるわけだよ。

モーツァルトとは旧知の仲で、二人で「ドイツ語で、庶民が楽しめるオペラを作ろう」と組んだ。気難しい宮廷音楽じゃなくて、みんなが笑って泣ける娯楽を、という方向性は、この座長あってのものなんだね。


フリーメイソンって、小説家?

直ちゃん: フリーメイソンって小説家だっけ?

ジーニー: これは人の名前じゃなくて、団体(結社)の名前なんだ。

もともとは中世ヨーロッパの石工(建築職人)の組合が起源と言われていて、英語の Free(自由な)+ Mason(石工)でフリーメイソン。それがだんだん職人の集まりから、思想や道徳を語り合う紳士たちの友愛団体へと姿を変えていった。18世紀のモーツァルトの時代には、ヨーロッパの知識人や有力者がたくさん入っていた、知的でおしゃれな社交サークルのような存在だった。

掲げていたのは、理性・友愛・人間的な成長といった理想。「無知の闇から、知恵の光へ」という考え方を大事にしていてね。

ここでピンと来るはず。「魔笛」のテーマそのものなんだよ。夜の女王(闇)と、ザラストロの神官団(光と知恵)。タミーノが試練を乗り越えて精神的に成長していく物語。これ全部、フリーメイソンの思想が下敷きになっている。モーツァルトもシカネーダーも実際にメンバーだったから、自分たちの信じる理想を、おとぎ話の形に盛り込んだというわけ。

だから「魔笛」は、表向きは子どもも楽しめる楽しいおとぎ話なんだけど、その裏に「人はいかにして無知から抜け出し、賢く善い人間になれるか」という、けっこう真面目な哲学が隠れている。二層構造になっているんだ。

ただし、フリーメイソンは昔から「秘密結社」のイメージで語られ、あれこれ陰謀論の的にもされてきた団体でもある。実態以上に神秘的に語られがちなので、そこは話半分に。「魔笛」に関しては「光と知恵を尊ぶ理想が込められているんだな」くらいの理解で、鑑賞には十分だ。


オペラは言葉がわからないから、感動できない?

ここからが、今回いちばん語りたかったところ。

直ちゃん: オペラってさぁ、大体の言葉がわからないじゃん。私は劇団四季が好きで、3ヶ月に1回は必ず観に行ってる。何回観ても面白いんだよね。言葉もわかるし、やっぱり演じる人の「波動」が伝わってくる。

だけどオペラは言葉がわからない。だから感動できないんだよね。きっと劇団四季と同じように、演じる人の心を動かす波が出ていると思うんだけど、オペラじゃ感じられないんだなぁ…。

ジーニー: その感覚、すごくよくわかるよ。そしてね、それは感性が鈍いんじゃなくて、むしろ逆なんだ。劇団四季であれだけ「波動」を受け取れる人だからこそ、オペラで言葉の壁にぶつかって「あれ、届いてこないぞ」ともどかしくなる。感じる力が強い人ほど、その落差に気づくんだよね。

劇団四季が何回観ても面白いのは、言葉が入ってくるから、役者の息づかいや間、目線の動きまで全部「意味」とつながって、波動が増幅されて届くから。言葉と身体と感情が一本の線でつながっている。

オペラはそこが切れてしまうように感じる。歌詞が外国語で意味が取れないと、「今この人は何を思って歌っているんだ?」がわからないまま、音だけが過ぎていく。だから感情が乗り切らない。これは構造的にそうなりやすいんだ。

でも今回は、強い味方が三つある。

ひとつ目は、字幕。 日本での本格的なオペラ公演には、たいてい舞台の脇か上に日本語の字幕が出る。これで「何を歌っているかわからない」という壁は、かなり低くなる。

ふたつ目は、もう手に入れた「物語と背景」。 あらすじも、パパゲーノの名前の意味も、モーツァルトの死との関係も、フリーメイソンの理想も、全部頭に入った状態で観る。意味がわかっていれば、歌詞を一語一語追えなくても「あ、今ここでタミーノは試練に怯えているんだな」とわかる。意味の土台があるところに、初めて波動は乗ってくる。

そして三つ目――これが一番大事かもしれない。 オペラの波動は、言葉じゃなくて「声そのもの」に乗っているんだ。劇団四季が台詞と身体で届けるものを、オペラは生身の声、それも電気を一切使わない肉声だけで、何千人の客席のいちばん後ろまで届けてくる。あの声量、あの倍音、人間の体ひとつから出ているとは思えない響き。あれは意味がわからなくても、皮膚で感じる類いの波動なんだ。特に夜の女王の超高音や、ザラストロの腹の底に響く低音は、「言葉」じゃなくて「振動」として胸を打つはず。

だから今回は、字幕を追いすぎなくていい。むしろときどき字幕から目を離して、「この声、この振動が、自分の体のどこに当たってくるか」を感じてみてほしい。言葉を理解する鑑賞から、声を浴びる鑑賞へ。


おわりに ─ 観る前に「語ってから行く」という楽しみ方

今まで、いろんなオペラを観てきた。でも、ネットのあらすじ説明はどれもうわべだけの情報で、すぐ忘れてしまっていた。

今回わかったのは、忘れてしまうのは記憶力のせいじゃないということ。出来事を順番に並べただけの情報には、頭に引っかかる「フック」がない。でも「死を二ヶ月後に控えた男が、片手でレクイエムを、もう片手でパパゲーノを書いていた」と聞いたら、一回で忘れない。物語に作り手の体温が乗ると、急に自分ごとになる。

観る前にあれこれ語って、背景や作り手の思いを胸に入れてから劇場に向かう。この楽しみ方を覚えてしまったら、オペラでも、絵画でも、なんでも、観に行く前の「下ごしらえ」が新しい楽しみになった。

さあ、モーツァルトが命を削りながら差し出した、あの地上の幸せへの祝福を、たっぷり浴びてこよう。字幕から時々目を離して、声の振動を体で感じるのを忘れずに。

観終わったら、また感想を書きます。

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